未知との遭遇から「やりたい」が始まった~自閉症の方との出会いが私のルーツ~

取締役/エンカレッジ東京エリア統括
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✅ 取締役/エンカレッジ東京エリア統括
Tさんは、エンカレッジの立ち上げメンバーでもあるわけですが、そもそもこの仕事と出会った最初のきっかけって何だったんですか?
大学時代のアサヒキャンプ(※1)での学生ボランティアの経験が原体験だと思います。そこでは子ども達と一緒に野外活動をしていたんですが、その中で、自閉症の子どもや、今でいう発達障害の子どもを対象としたキャンプがあったり、通常の子どもの中に自閉症の子どもが参加していたりしたんです。そこで初めて自閉症の子どもと接した時に、信じられないくらいの衝撃を受けたんですね。
こちらの関わり方が良くなかったからだと今なら分かるんですが、当時の私からすると、言葉が全然通じないし、悪いことはしていないつもりなのに叩かれたり、髪を引っ張られたり、なんでそうなるの?!って、それまでは経験したこともないようなことばかり起こったんです。
その衝撃的な出会いから、「この人達(自閉症の方)のことをもっと知りたい」と思うようになりました。
(※1)青少年や障害児・者など社会的支援を必要とする人達に、自然体験を中心とするレクリエーションの機会を提供する事業を実施するとともに、学生ボランティアの育成をはかることを目的として、青少年や障がい児・者などの野外活動事業などを行っている朝日新聞の外郭団体[現NPO法人]
そこで「自分には関係ない」じゃなくて「もっと知りたい」になったのはなんでだったんですか?
アサヒキャンプでは、その時代の社会的なテーマを取り上げた活動をしていたんですね。たとえば、阪神淡路大震災の時に被災した子をキャンプに招待したり、LDという概念が表面化してきた時にLD児のキャンプをしたり。そういう組織に所属していながら、自閉症のことを何も知らない自分にショックを受けたのはあるかなと思います。
それに、自分は彼らにどう接したらいいか全然分からなくてただただ困惑していた一方で、同世代の学生ボランティアがすごく楽しそうに(自閉症の)子どもと関わっていたりして、「何が違うんだろう?」って興味を持ったことも一つのきっかけだったかもしれませんね。
その時の経験が、今の仕事に就くきっかけだったんですね。
そうですね。大学に入学した当初はマスコミに興味があり、まさか今自分がこの仕事をすることになるとは全然思ってなかったですけどね(笑)。でも、卒業間際になって、自分のやりたいことって何だろう?と考えた時に、「自閉症の人に関わることがしたい」という思いに行き着いて、特別支援学校の先生になろうと思ったんですよ。ただ、私は文学部だったので、障害児教育の専修免許がとれる、大学の教育学部 特別支援教育専攻科に入り直したんです。
そこで先生を目指して勉強されていたと思うんですが、先生にはなられてないですよね…?
そうですね。特別支援学校の高等部へ教育実習に行った時に、「自分がやりたいのはこれじゃない」って強い違和感を覚えて、結局先生にはならなかったんです。先生の関わり方も厳しすぎると感じたし、学校という環境も何だか機械的に見えてしまって…。
今でこそ自閉症の方に対する正しい関わり方ってある程度確立されていますけど、当時はまだ色んな手法や考え方が乱立している状態で、何が正しいのか、どう関われば上手くいくのか、皆手探りな状態だったのかもしれないですね。
そうだったのですね…先生になる道を断念した後は、どうされたんですか?
もっと自由に新しい考え方や知見を取り入れながら支援できる環境で仕事がしたいと思った時に先輩から紹介していただいたのが、社会福祉法人 北摂杉の子会(※2)の職員募集だったんです。ちょうど法人が立ち上がる時期で、スタッフを募集していたんですね。当時の常務理事のお話を聞いて、ここなら自由にできるかもしれないと思いました。他にもいくつか別の法人の選考を受けたりもしましたが、やっぱりここかなと思って。
(※2)自閉症・発達障害のある方を主な対象として、様々な福祉施設、福祉サービスを運営している大阪高槻の社会福祉法人。以下、「杉の子会」と表記。
インタビュー1
それで、ご縁あって入社することになったんですね。そこではどんなことをされていたんですか?
一番初めの仕事は、重度の知的障害を併せもつ自閉症の方の入所施設で、身辺・生活面の支援をしていました。一緒に食事をしたり、洗濯をしたり、時には排泄や入浴の介助をしたりとか、自閉症の方とともに暮らすところからのスタートでした。
でも、最初の頃はもう大変で。3日で辞めたくなったことを今でも覚えてます(笑)。自閉症の方の支援がしたいと思って入ったわけですが、具体的にどう関わればいいのかよく分からないままだったので、やっぱり言葉が通じなかったし、叩かれたり、追いかけ回されたりしていて。実際にはこちらの関わり方が悪くて、彼らも困っていたんですよね…わからなさや不安を上手く言葉にできなくて、身体で表現するしかないからそうなるんだって頭では分かっていても、やっぱり最初は感情がついていかなかったですね。
で、このままじゃいかん!と自分でも思いましたし、当時の上司もやばいと思ったんでしょうね(笑)。私にとってはアサヒキャンプの先輩でもある、自閉症の支援のエキスパートの方に、スーパーバイザーとして来て頂けることになったんです。その方に自閉症の方との正しい関わり方について一挙手一投足を教えて頂きました。
それで、「こういう風に関わったらこうなるんだ!」っていうことがだんだん分かってきて、仕事が面白くなっていったんです。その方のおかげで、自分の関わり方が変わるきっかけをもらいました。
なるほど…その方に教えてもらえたことから変わっていったんですね。
やってもやっても何も変わらない、ということが続くとさすがにしんどくなってきますけど、自分が言ったことが伝わった瞬間とか、何か変化があると楽しいし、「もっとやってやろう!」って思えるじゃないですか。自分が嬉しいだけじゃなくて、ご利用者にとっても、生活がより充実することにつながりますしね。
もちろん失敗もたくさんありましたし、慣れるまで1年2年とかかりましたけど、幸いにも私は早いうちに成功体験を積むことができたから続けられたのかもしれないですね。
Tさんが支援の仕事をする上で大事にしていることはなんですか?
やっぱり、ご利用者さんの自立を促すことですかね。自立と言っても、何でもできないといけないということではなく、「できることは自分でする」という意味です。できることが増えていくと、その方の自信や自己肯定感につながると思うんです。わからないことを直接手助けするのではなく、わかるようにどう導いてあげるかが大切だと思いますね。
最初の施設での経験を経て、その後はどうされてましたか?
その後は、自閉症の子どもの療育に半年ほど従事したのち、発達障害者支援センターの立ち上げに携わりました。今から15年前くらいですかね。今でこそ各地域に支援センターがありますが、当時は国で初めてセンターが立ち上がる時期で、最初に立ち上がった全国12センターのうちの一つが大阪(杉の子会が委託を受けて運営)で、そこの就労支援担当になりました。
そもそも、当時は自閉症の方と言えば知的障害も併せ持っているという認識が常識で、高機能自閉症やアスペルガー症候群の方の存在が社会的に顕在化していなかったんです。その中で、彼らが自分たちの困り感を当事者の視点で語り始めて、メディアにも少しずつ取り上げられるようになってきて、ようやく表面化してきた時期でした。それに、当時は二次障害を併発していないと精神障害者保健福祉障害者手帳が交付されなかったので、そうでない方々にとっては、支援を受けたくても受けられないという問題もありました。
今と比べると、高機能自閉症やアスペルガーの方々にとっての生きづらさや働きづらさがまだまだ社会に認知されてなかったですし、私自身、今までは比較的重度の自閉症の方と関わってきたので、高機能の方への関わり方に最初は戸惑いがありました。しかし、関わるうちに、基本の特性から来る困り事は同じだということに気がついていきました。そして、こういう困り事が、社会や職場の中でしんどさにつながるのだなぁと。でも、彼らを支える制度や仕組みがない。通い先や居場所がないことに、矛盾というのか課題感を持っていました。
そんな時、もともとできたらいいなぁと憧れがあったのですが、アメリカ・ノースカロライナ大TEACCH(ティーチ)プログラムが運営する、サポーテッドエンプロイメント(援助付き就労)で学ぶ機会を得て、3ヶ月程アメリカに留学しました。
そこで留学されるんですね!アメリカではどんなことを学ばれたんですか?
一番感じたのは、ノースカロライナでも日本と同じように発達障害の人はいるし、支援者も試行錯誤しているんだな、ということでした。ノースカロライナなら、日本よりもずっと先駆的なのかなと思っていたんですが、そうではないんだなと。州によって支援制度や体制の違いがあったり、ノースカロライナでも高機能の方が増えてきていて、日本で起こっている課題と同じような状況でしたね。
ちなみに、今エンカレッジでやっているソーシャルクラブはこの時の経験から導入したものなんですよ。ソーシャルクラブの特徴は、一定の枠組みの中で、社会的な場面や資源を活用し、当事者自身が企画し、連続性を持って楽しんで参加できるということなんですが、その要素を取り入れました。
インタビュー2
アメリカでの経験を経て、帰国された後はどうされてましたか?
支援センターには8年ほど在籍していたんですが、私にとっての8年は長く(笑)、そろそろ次のステップに行きたいなと思っていたんです。タイミングよく当時の法人で、高機能やアスペルガーの方向けの事業所(ジョブジョイントおおさか(※3))を立ち上げることになり、そこの管理者になりました。ノースカロライナで学んできたことを活かして、一から自分たちでプログラムを考えて形にしていったんです。
ただ、問題は当事者の方との接点はあっても、出口となる就職先や企業との接点はあまりなかったんですね。どうやって企業との接点を作っていくのか、求人を探していくのか、そういった課題に頭を悩ませていました。
そこで、窪さん(エンカレッジ代表取締役/当時は株式会社インサイト所属)ともう一人の方と3人で勉強会をやろうということになって、発達障害のある方の就労支援における本質的な課題や解決策について、半年くらいずっと議論していたんですよ。
そこで行き着いた答えが、「大学生からの支援が必要だ」ということだったんです。
(※3)大阪高槻で就労移行支援・定着事業、自立訓練事業などを行う福祉施設。杉の子会の一事業所。
「大学生の支援」というところに行き着いたのはなんでだったんですか?
これは支援センターの頃から思っていたんですけど、たとえば30代40代になって支援につながった人だと、社会との接点がほとんどなくて、これから社会に出ようと思うと、生活リズム整えるところから始めましょう、みたいな話になることも多いんですね。
それって(就職まで)ものすごく時間がかかりますし、やっぱり、人の価値観って若い方が変化しやすいし、新しい考え方も受け入れやすいじゃないですか。こちらがよかれと思って伝えたことも、ある程度の年齢の方にはなかなか響かないっていう経験をしてきて、やっぱり若いうちから社会に出るための流れが必要なんじゃないか、という考えに至りました。
そこで鍵になるのは大学生だということで、発達障害のある大学生向けのインターンシップ(働くチカラPROJECT)を始めることにしたんです。
なるほど、それで大学生のインターンからスタートしたんですね。
当初は、窪さんが受入企業開拓、私が学生の窓口担当という役割分担で始めました。2年目に急に参加人数が増えて。やっぱりこの事業はニーズがあるし、続けていくことが大事だなと思ったんですね。それに、私自身、そろそろまた次のステップに行きたいと考えていたこともあって、窪さんと「一緒にやりましょう」と話をして、エンカレッジを立ち上げることになりました。
なので、(ジョブジョイントおおさかにいた)最後の一年は自分の後任者探しと引き継ぎをしながら、エンカレッジの立ち上げ準備を並行もして進めていました。私が(杉の子会を)離れた後も一緒に運営できる形になるよう、窪さんには色んな面で支えて頂いたと思います。やっぱり、杉の子会には15年間お世話になり、こんな私を育てていただいたご恩があるので、今も足を向けて寝られないですね(笑)。
自分を育ててくださった組織ですもんね。そこから、就労移行支援事業所エンカレッジ京都が立ち上がったんですよね?
そうですね。インターンには京都の学生がたくさん参加していたんですが、京都に拠点がなかったこともあって、京都からスタートしました。立ち上げ時は就労支援の現場を4人で回していて、しかも経験者は私だけだったので、利用者さんの面談も最初は全員私がやってたんですよ(笑)。プログラムも一から作って、現場をどう回していくのか考えて…と、最初の半年くらいは特にバタバタでしたね。
そこから、エンカレッジ大阪ができて、東さん(エンカレッジ大阪エリア統括)が入ってきてくれたことで色んな仕組みが整っていって、今の形ができていったという感じです。
立ち上げから5年以上経って色々と整ってきた中で、Tさんの今後の目標はどんな風に考えているんですか?
そこはまだまだ模索中だったりもするんですが、まずは私がフォローしなくても現場がしっかりと回っていく環境をどう整えるかだと思っています。
次の所長やサブリーダーになる人たちが育って、その人たちが自分で判断して現場を回せるようになれば、私もまた次のステージに行けると思うんですね。というか、むしろ私がいつまでも同じ役職で同じ仕事をしていたらいけないと思っています。そのために、今までは感覚的に進めていたことを仕組みやマニュアルに落とし込んで、全員が一定以上の支援をできるように環境づくりをしている最中です。
最後に、Tさんは、どんな人と一緒に働きたいと思いますか?
「あんなことやりたい、こんなことやりたい」っていう思いのある、チャレンジ精神旺盛な人だと嬉しいですね。エンカレッジは、ICTツールの開発とか、福祉事業だけでなく色んな新しいことに挑戦している会社なので、新しいアイデアで社会課題に挑みたいとか、一緒に世の中を変えるような面白いことをしていきたいという方からのご応募をお待ちしております!(笑)
番外編:プライベートの過ごし方
休日は健康のためにジョギングをしたり自転車に乗ったりしています。大阪城公園とか景色のいいところを走るのが好きですね。その後、美味しいクラフトビールを飲むのが至福の時間です。あ、平日でも一人で立ち呑みとかも行けるタイプなので、グビッと飲んでリフレッシュしています(笑)。
 この記事を書いた人
インタビュワー
✅ 喜多 佑衣
✅ エンカレッジ 経営管理部 広報担当
大阪生まれ大阪育ち。新卒入社した人材派遣会社をわずか10ヶ月で退職した後、教育系NPOや大学のキャリアセンター、企業の人事採用担当など、教育・人材に関わる仕事を経験。様々な理由で働きづらさを抱える人が身近にいた経験から、そういった方々に貢献できる仕事をしたいと思い続け、2018年12月よりエンカレッジ入社。”広報”という手段を通して、エンカレッジが掲げるビジョンの実現に向けて奮闘中。